1987年の紅白歌合戦で「難破船」を歌う、22歳の中森明菜の映像。

懐かしそうに振り返るのかと思って見ていたら、本人の口から出てきたのは「これは3年連続レコード大賞を取るはずだったんです」という一言でした。

2026年10月24日の夜、NHKの「SONGSスペシャル」でのことです。

中森明菜は1985年の「ミ・アモーレ」、1986年の「DESIRE」で2年続けてレコード大賞を取っていて、1987年は3年連続がかかった年でした。

その年の大賞を取ったのは、近藤真彦の「愚か者」です。

ネットには「誰もがレコ大3連覇だと思ってた」「明菜ちゃんから発してくれて良かった」という声があふれ、「今更言わなくていいと思う」「レコ大ネタには触れて欲しくなかった」と案じる声も並んでいます。

あの年のレコード大賞で、いったい何が起きていたのか。

当時の記録をたどると、この年の中森明菜は、大賞とは別の賞を受けていました。


「取るはずだった」の続き

この夜の番組で、中森明菜は17年ぶりにNHKのスタジオで歌い、「少女A」や「難破船」などの懐かしい映像を見ながら昔を振り返っています。

報道によると、紅白で「難破船」を歌う映像が流れたところで、「これは3年連続レコード大賞を取るはずだったんです」と話したそうです。

スポーツ報知は、このとき笑顔を見せたと伝えています。

 

画面に残った「…と思います」

番組の画面には「3年連続レコード大賞 取るはずだった」と大きな文字が出て、その下の字幕には「…と思います。」の一行。

スポーツニッポンの記事も、この一言を「…と思います」まで含めて伝えています。

ふだんの控えめな話しぶりを知っているからこそ、本人の口から賞の話が出たことに驚いた、と書いた人もいました。

では、この「難破船」は、どうやって中森明菜のもとへ来た曲だったのか。

 

加藤登紀子から託された曲

「難破船」には、中森明菜より先に歌っていた人がいます。

作ったのは加藤登紀子で、1984年に自分のアルバムで歌っていた曲を、1987年に中森明菜へ贈ったものです。

加藤登紀子は2023年12月、80歳の誕生日のコンサートの前の会見で、「あなたがこの歌の主人公にぴったりだから」と言って渡したと振り返っていました。

同じ日には、「明菜さんが歌ってくださって、この歌に命が宿ったと思います」とも話しています。

 

番組の中で中森明菜も、加藤登紀子に「あなたが歌うべき歌」と勧められたことへの感謝を口にし、「すばらしい曲だと思いました」と振り返ったそうです。

聴いているうちに涙があふれて、「私のものにしなくちゃいけないと思って歌い切りました」とも話しています。

「取るはずだった」と話した同じ場面で本人が語ったのは、この曲をくれた加藤登紀子への感謝でした。

この「難破船」は、2026年7月に約30年ぶりに生出演した「ミュージックステーション」でも歌われ、手が震えていたと心配する声が出た曲でもあります。

その夜のことと、いまの体調については、こちらにまとめています。

中森明菜は病気なの?Mステで震えていた理由と現在の体調を調査
中森明菜は病気なの?Mステで震えていた理由と現在の体調を調査 2026年7月17日放送のテレビ朝日系『ミュージックステーション』は1500回記念の特別企画として2時間の大型スペシャルを放送し...


売上はたしかに明菜だった

悔しがる声の根拠になっているのは、年間の上位7曲のうち3曲が中森明菜の曲なのに、大賞は年間35位の曲だったという数字です。

オリコンの1987年の年間シングルランキングで見ると、この数字はそのとおりでした。

上位と、この記事に出てくる曲だけを抜き出すと、次のとおり。

  • 1位 命くれない(瀬川瑛子)
  • 2位 TANGO NOIR(中森明菜)
  • 6位 難破船(中森明菜)
  • 7位 BLONDE(中森明菜)
  • 9位 追憶(五木ひろし)
  • 35位 愚か者(近藤真彦)

 

秋に出て年間6位

中でも「難破船」は、発売が1987年9月30日です。

秋に出た曲なのにその年の年間6位に入り、オリコンの週間ランキングでは初登場で1位、TBSの「ザ・ベストテン」でも5週続けて1位だったと記録されています。

その勢いのまま、年末のレコード大賞を迎えた1曲でした。

 

「辞退」も「カバー」も違う

ネットには、「難破船」は「作品として完結してしまったから」という理由でレコード大賞を辞退した、と書く投稿や、大賞は「カバー曲」では取れない、と書く投稿も出ています。

ただ、レコード大賞を主催する日本作曲家協会の記録では、「難破船」は大賞の候補にあたる金賞10曲の中に、きちんと入っていました。

大賞の「愚か者」も、五木ひろしの「追憶」も、同じ10曲の中です。

つまり「難破船」は、辞退もしていなければ、カバーだからと外されてもいない。


売上では決まらない賞

では、年間の上位を占めていた曲が、なぜ大賞にならなかったのか。

実は、レコード大賞は売れた枚数で決まる賞ではありません。

大賞を選ぶのは、スポーツ紙を含む新聞社などの記者を中心にした審査員で、その年の作品の中からふさわしい1曲が選ばれる仕組みです。

それは分かっている、それでも…という気持ちを、そのまま書いた人もいました。

そしてこの年、売れたのに大賞に届かなかったと悔しがった歌手が、ほかにもいます。

 

五木ひろしも悔しかった年

「追憶」で年間9位に入っていた五木ひろしは、2023年に雑誌「GOETHE」のウェブ版の連載で、50年以上の歌手人生でいちばん悔しかったのが1987年のレコード大賞だったと話しています。

「あの年、『追憶』でレコード大賞は獲れると信じていました。売れましたから」

そして発表の瞬間を、「受賞の発表のときは悔しくて、義理の拍手すらできませんでした」と振り返っていました。

獲れると信じていた五木ひろしも、年間の上位を3曲で占めた中森明菜も、この年の大賞には届いていません。

 

どちらでも初めてだった

放送の翌朝には、もうひとつの見方も出てきました。

当時のレコード大賞は過去の実績も込みで選ばれていたから、「前例のない三連覇を避け」たのではないか、というものです。

日本作曲家協会の記録でそれまでの大賞を並べてみると、2回取った歌手は、橋幸夫、五木ひろし、細川たかし、中森明菜の4人だけでした。

3回取った人も、3年続けて取った人も、まだ一人もいません。

中森明菜が取れば初めての3連覇、すでに大賞を受けたことのある五木ひろしが取れば初めての3回目、という年だったわけです。

ただ、審査でそう話し合われたことを示す記録は、今回調べた範囲では見つかっていません。

大賞の3連覇が初めて出たのは、それから20年以上あとのEXILEです。


売れた2人に贈られた別の賞

1987年の大賞が発表されたのは、12月31日の大晦日の夜でした。

その同じ場で、中森明菜には別の賞が贈られています。

名前は「特別大衆賞」です。

この年、同じ賞を受けたのは、オリコンの年間1位「命くれない」を歌った瀬川瑛子でした。

年間1位の歌い手と、年間の上位7曲に3曲を入れた歌い手が、そろってこの賞を受けたことになります。

 

前の2年には無かった賞

日本作曲家協会の記録を見ると、この賞は、中森明菜が大賞を取った1985年と1986年には出ていないんです。

その名前が受賞者の一覧に並んだのが、売上の上位にいた2人が大賞に届かなかった、この年でした。

いちばん売れた2人には「大衆」の名前の付いた賞が贈られ、大賞は別の歌に渡った。

あの年の大晦日の大賞は中森明菜だった、と今も思っているファンは、この人だけではないはずです。

 

発表前から言われた「不利」

こうなることを、発表の前から書いていた雑誌もありました。

レコード大賞の回ごとの記録をまとめたウィキペディアの項目には、1987年11月25日の金賞などの発表を前に出た「ザテレビジョン」の特集の中身が紹介されています。

そこに並んでいたのは、こんな見方だったそうです。

  • 売上でトップの中森明菜が順当という、レコード会社の宣伝部の見方
  • 本人も周りも賞を取りにいく運動をしないので、審査の心証では不利という、スポーツ紙の記者の見方
  • 瀬川瑛子と、近藤真彦や少年隊などのジャニーズ事務所の歌手と、五木ひろしの争いになるという、審査員の見方

特集は、「ファン不在の”音楽祭”にならぬよう熟慮が欲しい気はする」と結ばれていたといいます。

賞を取りにいく運動をしない側が審査で不利になる、という見方が、当時の記者の口から出ていたことになります。

その運動をどの陣営がしていたのかまでは、この記録からは読み取れないままです。


近藤真彦と「圧力」の噂

ネットには、近藤真彦や、当時のジャニーズ事務所を責める声も並んでいます。

放送のあとには、「忖度」「圧力」という言葉も出てきました。

「愚か者」は、ジャニーズ事務所の歌手として初めてレコード大賞を取った曲とされています。

「謎だったな」という一言が、39年たった今も、そのままの形で出てくるんです。

 

圧力を確かめる記録はない

ただ、事務所から審査員への働きかけがあったと確かめられる記録は、今回調べた範囲では見つかりませんでした。

「事務所の力が働いた」という話はいまも語られますが、どれも出どころがはっきりしないままです。

中森明菜と大賞を争ったことについて、近藤真彦本人が語った言葉も見当たりませんでした。

 

「愚か者」にもあった物語

「愚か者」の詞を書いたのは、伊達歩という名前で作詞もしていた作家の伊集院静です。

発売は1987年の元日で、同じ月のうちに、同じ作詞・作曲の「愚か者よ」を萩原健一も出していました。

いわゆる「競作」で、1つの曲を2人がそれぞれ歌っていたことになります。

放送のあとには「本質的には萩原健一さんのための曲」と書く投稿も出ましたが、どちらのために書かれた曲なのかは、はっきりしていません。

週刊女性は、アイドルとしての人気に陰りが見えはじめていた近藤真彦を「よみがえらせた」曲だと紹介しています。

2023年11月、伊集院静が亡くなった4日後のライブで、近藤真彦はこの曲を歌おうとして泣き崩れたそうです。

 

その「愚か者」が大賞に選ばれた年、近藤真彦の身には、亡くなった母親の遺骨が盗まれる事件も起きていました。

2010年、久しぶりにレコード大賞の舞台に立った近藤真彦は、「古い話になりますが、悲しい思い出がありました」とその年を振り返っています(オリコンニュース)。


39年後の「…と思います」

放送のあと、こんな戸惑いを書いた人もいました。

近藤真彦の名前が呼ばれた夜、中森明菜が手を叩いて喜んでいた——当時の放送をそう覚えている人は、この投稿のほかにもネットにいます。

あの夜に喜んでいた本人が、なぜ今になって、と戸惑う声が出るのも、当然かもしれません。

放送の翌日には、近藤真彦を責める流れに「本人でもないのに」「いつまで言ってんのよ」と書く人も出てきました。

ずっと応援してきた人ほど、この一言で本人がまた何か言われないか、そこがいちばん気がかりなんですよね。

 

拍手を覚えている人たち

五木ひろしが「義理の拍手すらできなかった」と振り返る同じ発表の場で、中森明菜は拍手をしていた、と覚えている人たちがいる。

その中森明菜が39年たって口にしたのが、「取るはずだったんです。…と思います」でした。

誰かを責める名前は、ひとつも出していません。

審査への文句も、売上の数字も、口にしていないんです。

続けて話したのは、「難破船」という曲と、それをくれた人のことだけでした。

悔しさは、自分が歌い切った1曲への誇りの言葉として出てきたように聞こえます。

ファンの悔しさが39年たっても消えないのは、あの年の決め方に、いまも納得できないままだからですよね。