雨のジャイアンツ球場、就任2日目の松井秀喜監督。

2026年10月24日の午後2時半前、川崎市の球団施設の前に黒い車が止まり、傘を差しかけられた松井監督が降りて、そのまま建物の中へ歩いていきました。

翌朝、この動画を引用して「ここに松井という人間性が全て詰まってるぜ」と書いた投稿が広がります。

ところが、その返信や引用には、「意味がわからん これ以外にどういう行動があんねん」「良い意味なのか?悪い意味なのか?」という声が並びました。

たしかに、映っているのは車を降りて歩く姿だけですから、「これ以外にどういう行動があんねん」と言いたくなる気持ちも分かりますよね。

それでも、こんな何でもない場面にまで「人間性」という言葉が付くところに、松井秀喜がなぜ人柄がいいと言われるのか、その答えがあるのかもしれません。


雨の12秒に映っていたもの

流れたのは、日刊スポーツの巨人担当の記者が「松井秀喜監督がジャイアンツ球場に到着しました。」と添えて出した動画です。

前の日の10月23日に就任会見を開いたばかりで、秋季キャンプが始まる30日より前に、松井監督が球場へ姿を見せた場面でした。

スポーツ報知によると、到着は午後2時24分ごろで、入口では約50人の報道陣が待っていたとのこと。

 

外は雨で、車は屋根のかかった玄関の前に止まります。

マスクをした男性が後ろのドアのそばへ回り、黒い傘を広げて、出てくる人の頭の上へ高く差しかけました。

松井監督は車から降りると、傘の下から出て、カメラが並ぶ入口へ立ち止まらずに歩いていきます。

手を振るでもなく、カメラに向かって何かを言うでもなく。

動画の中で起きていることは、本当にこれだけなんです。

 

だからこそ、「人間性が全て詰まってる」という一言には、首をかしげる返信がいくつも付きました。

「人柄が良いって意味でしょうか?」と聞き返す人がいれば、「あばたもえくぼすぎない?」と返す人もいます。

かと思えば、この投稿を引用して「これだけで好きになれる」と書いた人もいました。

じつは前の日の就任会見を見た人も、同じ「人間性」という言葉を使っていたんです。

動画には映っていない話が、会見の日とこの日の球場に、いくつも残っていました。


就任2日目の球場で

建物に入った松井監督は、待っていた報道陣の質問にも答えています。

この日に球場へ来た理由を聞かれると、「スタッフの皆さんと顔合わせてあいさつして、これからの方針の説明を受けるために来ました」と話したそうです。

デイリースポーツによると、ジャイアンツ球場のほかに選手寮なども見て回り、秋季キャンプの打ち合わせもしたとのこと。

「監督」と呼ばれることについて聞かれると、「違和感だらけですね、まだ。全く慣れません」と苦笑いしていました。

 

トレーナー室の西舘投手

見て回ったなかで、松井監督が自分から話したのが、トレーナー室での一幕です。

トレーニングや治療に来ていた選手の中に、ベッドで寝ていた巨人の3年目、西舘勇陽投手がいました。

スポーツ報知によると、松井監督はこの場面をこう話しています。

「気持ちよさそうに寝てたので。うらやましいなと思って」「最後、戻る時は起きていたので」

テレビ朝日系の報道では「最後出る時に起きました、あいさつしました」とも話していて、帰りぎわに目を覚ました西舘投手とは、あいさつを交わせたようです。

松井監督の言い方からは、起こさずにそのまま寝かせておいた、と読めます。

 

鳩小屋の思い出

東スポによると、ルーキーだった1993年の思い出を聞かれて、松井監督が真っ先に挙げたのは、球場にあった伝書鳩の小屋でした。

「鳩がバーっと飛んでいくんですよ。で、時間になると音楽が鳴るんですよね。で、鳩は戻ってくるんです。懐かしいです」

東スポが話を聞いた、古くから松井監督を知る関係者でさえ、この話は初めて聞いたそうです。

デイリースポーツには、ルーキーのころは2軍にいることが多かった、という振り返りも載っています。

日米で507本のホームランを打った人が、古巣に戻って思い出したのは、2軍のころに見ていた鳩の小屋でした。


24年前は笑わなかった

前の日の就任会見で、松井監督は冒頭にこう話しています。

「きょうここに来るときに、今から24年前自らの意思でジャイアンツを去る時のことを思い出していました。あの日は全く笑顔を出すことができませんでしたが、きょうは満面の笑顔で自分のふるさとに戻ってきたつもりです」

2002年のオフ、松井秀喜はフリーエージェントで巨人を出て、ニューヨーク・ヤンキースへ移りました。

そのとき口にしたのが、「たとえ裏切り者といわれようとも」という言葉だったと、日本経済新聞は振り返っています。

当時の新聞の見出しまで覚えている人がいるくらい、あの日の硬い表情は強く残っていたわけです。

 

「経験はほぼない」と自分から

会見で目を引いたのは、自分の足りないところを、自分から先に口にしたことでした。

スポニチによると、松井監督は「私は指導者の経験はほぼありません」と認めたうえで、「選手とともに伴走し、一緒に成長していきたい」と話しています。

新しい監督の最初の会見で、そこを隠さずに言える人は、そう多くないはずです。

 

取り消した「約束」

会見には、1年あまりのあいだ、いろいろに受け取られてきた言葉の話も出てきました。

2025年6月、長嶋茂雄元監督の訃報を受けてニューヨークから帰国した松井監督は、「長嶋監督と生前、約束したこともあります。その約束を果たしたいなと思います」と話しています。

その年の8月にも「約束が何かは言えないけれど、ただ、ジャイアンツの未来に自分自身が関わっても不思議ではないと思っています」と語っていて、この「約束」の中身は、ずっと明かされないままでした。

スポニチによると、松井監督は今回の会見で、約束を口にしたこと自体を自分から取り消しています。

「自分の発言によっていろいろな憶測が飛び、当時のチームに凄く迷惑をかけた。言うべきじゃなかったと思っております」

監督として初めての会見で、1年あまり前の自分の言葉が、そのころ戦っていたチームの迷惑になったと話したわけです。

中身については「皆さん、ご自由に考察してください」と冗談めかし、「(あの発言は)私と長嶋さんだけのもの」とだけ。


5打席敬遠のころから

松井秀喜という名前を、多くの人が最初に覚えたのは、甲子園の星稜高校の4番だったころかもしれません。

1993年に巨人へ入ってからの10年で332本のホームランを打ち、ヤンキースでは2009年のワールドシリーズでMVPに選ばれています。

それでも、この人の人柄の話になると出てくるのは、記録よりも、負けた日やけがをした日に口にした言葉です。

あの動画を見て「人間性」と書いた人の頭にも、こうした昔の話があったのかもしれません。

 

「相手のやり方だと思う」

作家の伊集院静の本には、中学2年のとき、友だちの悪口を言った松井少年に、父親が「今、ここで二度と人の悪口を言わないと約束しなさい」と言い聞かせた話が紹介されています。

その4年あまりあと、1992年8月16日の夏の甲子園で、星稜高校3年の松井秀喜は、明徳義塾に5打席すべて敬遠され、2対3で敗れました。

時事通信によると、試合のあと本人は「敬遠は相手のやり方だと思う」「投手にも、特に言いたいことはない」と話しています。

のちにNumber Webの取材には「怒ってましたよ。ただ表に出さないだけで」とも語っていました。

怒りはあっても、それを相手には向けなかった18歳です。

 

骨折してチームに謝った

2006年5月、ヤンキースの松井秀喜は守備で左手首を骨折し、手術のあとにチームメートへ謝る声明を出しています。

東スポによると、その言葉は「チームメートに心の底から申し訳ないと思っている」というもので、アメリカの記者からは「なぜ松井が謝らないといけないんだ?」という声まで出たそうです。

責められる立場ではないはずの本人が、自分からチームに頭を下げていました。

 

記者の名前を覚えていた

ジャイアンツ球場の入口で待っていたような報道陣への接し方にも、昔からの話がいくつも残っています。

報知新聞の記者だった清水友博記者は、2011年の春、アスレチックスにいた松井秀喜を、オークランドのクラブハウスで取材しました。

前の年の1月に自主トレの取材で一度会っただけなのに、松井秀喜は「おお、清水。よく来たね」と名前で迎えてくれたと、Full-Countの記事で振り返っています。

日本から持っていった和菓子のお土産にも、翌日「めちゃくちゃ美味しかったよ。あれはいいお土産だった」とお礼を言いに来たとのこと。

集英社のSportivaによると、アメリカの記者たちから「グッド・ガイ賞」を贈られた理由を聞かれた松井秀喜は、「敬意を払うということは大切だと思っています」と答え、「チームメイトや関係者はもちろん、記者やファンも同じ」と続けています。

 

「これ以外にどういう行動があんねん」というツッコミのとおり、あの動画の中では、特別なことは何も起きていません。

それでも、敬遠した相手を責めなかった18歳や、骨折してチームに謝った31歳、一度会っただけの記者の名前を覚えていた36歳を知っている人には、監督になった翌日、動画の中で黙って車を降りていく姿が、同じ人のものに見えたのでしょう。

「良い意味なのか?悪い意味なのか?」と聞かれたあの一言は、その30年あまりをまとめて褒めた言葉だった、ということかもしれませんね。