2001年9月11日にハイジャックされた飛行機は全部で4機あって、そのうち1機だけが狙った場所へたどり着いていません。

ポットの熱湯を抱えた客室乗務員と、配膳カートを押して操縦室の扉へ突進した乗客たち。

その飛行機は首都へ届く前に、ペンシルベニア州の野原へ落ちました。

日本の大学生をふくめた40人が、そこで命を落としています。

 

ただ、この話には引っかかるところがあるはずです。

全員が亡くなった墜落事故なのに、機内の動きが分刻みで判明している

生存者ゼロなのに、なぜそこまで詳しく分かっているのでしょうか


9.11でただ1機だけ目的地に届かなかった便がある

その飛行機は、ユナイテッド航空93便といいます。

ニューヨーク近郊のニューアーク空港を出て、サンフランシスコへ向かうはずのボーイング757でした。

乗っていたのは乗員7人と乗客37人。

ただし乗客のうち4人は、最初から乗っ取るつもりで搭乗した実行犯です。

巻き込まれたのは40人でした。

 

米東部時間の午前10時3分、93便はペンシルベニア州シャンクスビルの近くにある野原へ落ちています。

民家も人影もない、ただ草が生い茂るだけの原っぱ。

 

その日に日本のテレビが繰り返し映したのは、ニューヨークのワールドトレードセンターへ突っ込む2機のほうでした。

もう1機は、首都ワシントン郊外の国防総省へ入っています。

あの朝の映像をどこで見たか、いまも覚えている方は多いはずです。

つまり4機のうち狙いどおりに使われなかったのは93便だけだったわけです。


離陸が遅れたことでこの便だけ結末が変わった

93便は、午前8時ちょうどにゲートを離れる予定でした。

ところが滑走路へ向かう列に並んだまま動けず、実際に飛び立てたのは8時42分です。

アメリカ議会がテロの経緯を調べてまとめた報告書(9/11委員会報告書)は、この時点で予定より25分以上遅れていた、と書いています。

 

地上で足止めされていたあいだに、外の世界では別の3機がもう動き出していました。

ワールドトレードセンターの北棟に1機目が突っ込んだのが8時46分、南棟に2機目が入ったのが9時3分。

93便が乗っ取られたのは、そのあとの9時28分でした。

 

先に乗っ取られた3機の乗客は、自分たちがどこへ連れて行かれるのかを知りません。

ハイジャックといえば、要求を聞いて着陸を待つもの。

「犯人を刺激せず大人しく待つ」が、当時の鉄則だったのです。

 

ところが93便の人たちは、地上にいる家族と電話がつながります。

そして、ニューヨークでもう2機が同じことをしたと聞かされました。

この飛行機も、どこかへ突っ込むために飛んでいる

40人は、それを知ったうえで残りの35分を過ごすことになったのです。


生存者はゼロなのに37本の電話が残っている

生きて帰った人は、ひとりもいません。

それでも機内の様子が分かっているのは、乗っていた人たち自身が外へ伝えたからです。

 

米連邦捜査局(FBI)によると、乗っ取られた9時28分から墜落する10時3分まで、わずか35分のあいだに37本もの電話がかけられています。

そのうち35本は、当時の座席に備え付けられていたエアフォンという有料電話からです。

残りの2本は、乗客が自分で持っていた携帯電話でした。

エアフォンは有料なので、かけるときはクレジットカードを通します。

だから電話会社の課金記録に、かけた時刻・名前・相手の番号・通話時間・座席が何列目かまで残っていました。

 

9/11委員会報告書には、少なくとも乗客10人と乗務員2人が、地上の相手へ中で起きていることを伝えた、と記されています。

妻へ、夫へ、母へ、会社へ。

警察への通報と違って、受話器の向こうにいたのはほとんどが家族でした。

限られた通話時間のなかで、外の状況を聞き、いま機内で何が起きているかを伝えていました。

 

継母に向かって4分間しゃべり続けた、27歳の女性乗客もいます。

その4分間に何を話したのかは、最後まで受話器を持っていた継母が証言しました。

操縦室の音を録っていた箱が93便だけ見つかっている

電話のほかに、もうひとつ記録があります。

操縦室の音を録り続けているコックピットボイスレコーダーです。

この日に落ちた4機のうち、中身を再生できる状態で見つかったのは93便のものだけでした。

地面の下、7メートルあまりまで潜り込んでいたところを掘り出されています。

ビルの大火災で記録ごと焼けた3機と違って、93便だけは黒い箱が残ったのです。

 

生存者がいたから伝わったのではありません。

誰も帰れないと分かったうえで、それでも外へ伝えた人たちがいた。

だからこの話は、25年たったいまも誰かの口から出てくるのだと思います。


熱湯の話の出どころは妻から夫への電話だった

熱湯の話も、その37本のうちの1本から出てきたものです。

かけたのは、客室乗務員のサンドラ・ブラッドショーさんでした。

相手は夫のフィリップさんです。

米国立公園局が運営するフライト93国立記念施設の公式ページに、この通話の中身が残っています。

 

乗客たちがギャレー(機内の調理スペース)から熱いお湯を出していて、犯人に向かって突っ込むつもりだ。

 

飲み物を配るために沸かしてあったポットのお湯を、決死の武器にするつもりでした。

つまり熱湯の話は、誰かが後から足した脚色ではありません

妻から夫へ託された、最後の受話器越しの言葉です。

 

いまネットで語られている話にも、この熱湯は出てきます。

同じ記念施設の記録には、もうひとつ残された一文があります。

乗客たちが操縦室を取り返しに行くかどうかを、その場で投票して決めたという記述です。

映画に出てくるような英雄の号令ではありません。

その日に初めて顔を合わせた人たちが、地上の家族から状況を聞き、話し合って、手を挙げた。

そのうえで、お湯を沸かして立ち上がっています。


向かっていた先はワシントンまであと20分の距離だった

乗客が動き出したのは、午前9時57分でした。

このとき操縦桿を握っていたのは、実行犯のひとりで操縦訓練を受けていたジアド・ジャラです。

ボイスレコーダーには、扉の向こうから人が押し寄せてくる音と、犯人たちが慌てる声が残っていました。

ジャラは機体を左右に大きく振り、上下にも揺さぶって、乗客を転ばせようとします。

それでも扉を破られそうになった瞬間、操縦輪を右いっぱいに切ります。

機体はひっくり返り、時速900キロを超える速さで、10時3分11秒に地面へ激突しました。

 

乗客が動き出す少し前、受話器を握りしめたまま妻への伝言を託していたのが、32歳のトッド・ビーマーさんでした。

そのあと仲間へ向けて言った「Are you ready? Okay. Let’s roll.(準備はいいか。よし、行こう)」が、そのまま通話の最後に残っています。

落ちた場所から首都ワシントンまでは125マイル、およそ200キロ=飛行機ならあと20分ほどの距離です。

9/11委員会報告書は、ジャラのねらいを「アメリカという国の象徴、すなわち連邦議会議事堂かホワイトハウス」と書いています。

のちに拘束された計画の首謀者も、議事堂が標的だったと供述しました。

 

その日の午前、連邦議会は開会中でした。

議場に議員、廊下に職員、入口には見学者。

大勢の人がひしめいていた連邦議事堂とホワイトハウス。

93便はそこへ届かず、200キロ手前の野原で止まりました。

軍の戦闘機は93便に間に合っていなかった

では、乗っ取られてからの35分のあいだに、外から止める手はなかったのか。

すでに3機が突っ込んだあとですから、「軍のスクランブル発進が間に合ったのでは」と思いたくなります。

 

ところが報告書によると、アメリカ本土の東側の空を見張る北東防空司令部が93便のことを知らされたのは、午前10時7分でした。

墜落から4分も過ぎたあと

戦闘機を出すかどうかを決めるのは、この司令部です。

レーダーで機影を探しても見つかりませんでした。

探し始めた時には、もうすべてが終わっていたからです。

 

首都上空の機体を撃ち落としてよいかどうかのやり取りが現場で始まったのも、10時10分ごろ。

この飛行機を止められたのは地上の軍隊ではなく、空中に取り残された40人だけだったわけです。


あの便には早稲田大学の2年生がひとり乗っていた

93便の乗客名簿には、日本人の名前がひとつあります。

久下季哉さん、当時20歳。

早稲田大学理工学部の2年生で、留学の下見に北米をまわった帰り道でした。

迎えに行くはずだった母親のやちよさんは、コロナ禍の時期をのぞいて、毎年ペンシルベニアの現場を訪れています

日本から片道1万キロを超える道のりを25年、なぜそこまでするのかと聞かれて、この方はこう答えたそうです。

 

「息子はね、あんなえらい目にあったんやから。私が行くことぐらい、たやすいもんです」

 

生きていれば45歳です。


40人ぶんの風鈴が鳴る塔が野原に立っている

熱湯の記録が載っていたあのフライト93国立記念施設は、墜落した野原そのものに作られています。

できたのは2011年、事件から10年の節目でした。

 

その入口に、少し変わった塔が立っています。

声の塔(Tower of Voices)という名前で、高さは便名と同じ93フィート。

メートルに直すと約28メートルなので、ビルの9階ぶんくらいはあるでしょうか。

この塔から吊るされているのは、アルミでできた40本の風鈴です。

亡くなった乗客と乗務員、ひとりにつき1本ずつ。

長さが1本ずつ違うので、風が吹くたびに40通りの違う音が鳴ります

映画にもなっているのに日本ではあまり広まらなかった

塔が立っても、その名前を日本で聞くことはほとんどありませんでした。

あの35分間は、2006年に『ユナイテッド93』という映画にもなっています。

ボイスレコーダーと電話の記録をもとに、ほぼ実時間で進んでいく作品です。

エンドロールが終わっても席を立てなかった、という感想が多いのもそのせいかもしれません。

日本でこの便が語られてこなかった理由は、当時テレビが映したものにあると思います。

ビルへ吸い込まれていく2機目と、崩れ落ちるツインタワー。

その2つがあまりに強くて、ペンシルベニアの野原までは画面が回らなかったのでしょう。

 

それでも『ポットのお湯で立ち向かった』という話だけは、テレビで一度見ただけの人の記憶に残り、いまも誰かへ伝えられています。

2001年9月11日、あの機内から外の誰かへ届いたのは37本の電話でした。

ニュースの速報としてではなく、受け取った家族が語り継いだ記録として、25年かけて海を越えてきたのです。

40人が最後にやったのは、戦うことだけではなかったのでしょう。

 

ユナイテッド航空93便で亡くなられた40名の方々のご冥福を、心からお祈りいたします。