【業界の闇】映画監督の子役・役者への暴力を許してはいけない
最近、X(旧Twitter)で俳優の松崎悠希さんが投稿したポストが、ものすごい勢いで拡散されているのをご存じでしょうか。
2026年3月現在もなお議論が続いており、数百万ビューを記録、数万のいいねやリポストが集まっています。
その内容は、日本の映画界で長年行われてきた子役への暴力や精神的な追い込みについての告発でした。
「作品のため」「リアリティのため」という理由で、子供に本気で手を上げたり、何十日も親から引き離したりする行為が、まるで職人技のように語り継がれてきた現実。
正直なところ、これを知ったとき背筋が凍る思いがしました。
西村喜廣 監督
『(子役に実際に暴力を振るうこと)結構ありますね。若い子なんでリアルさを出さないとあの表情が出なかったと思います。別にそこまで危険なことはやってないと思うので』
小林勇貴 監督
『恐ろしいものが撮れてしまいましたが…。児童虐待撮りました(笑)』https://t.co/KC9K9FIEzH— Yuki Matsuzaki 松崎悠希📽️ (@Yuki_Mats) March 6, 2026
だって冷静に考えてみれば、これは普通に犯罪なのではないかと思えてなりません。
この記事では、松崎さんの告発や榊英雄被告の実刑判決(控訴中)、園子温監督の性加害に関する一部真実認定といった一連の出来事を軸に、日本の映画界に根深く巣食う「暴力の容認」という闇を掘り下げていきます。
読んだあと、映画の見方が少し変わるかもしれません。
目次
映画界の闇による子役への暴力への怒り
ネットでこの問題がここまで炎上している最大の理由は、実にシンプルなんですよね。
「これ、犯罪じゃないの?」という、ごく当たり前の怒りが爆発しているからなんです。
松崎悠希さんのスレッドには、子役に対する身体的な暴力や精神的な追い込みが、「演出」や「リアリティ追求」という名目でまかり通ってきたエピソードが次々と並んでいました。
それを読んだ多くの人が、きっと同じことを感じたのではないでしょうか。
「芸術だったら、何をしても許されるのか」と。
子供が本気で痛がって、恐怖で泣き叫んでいる姿を「いい演技が撮れた」と評価する世界。
監督やスタッフが子供の心と体を傷つけておきながら、「まあ、危険なことはやってないですよ」と軽く笑い飛ばしてしまう感覚。
「児童虐待撮りました」なんて発言が、業界の中で笑い話として消費されてきたという現実。
これ、一般の社会だったら一発でアウトですよね。
今の時代、児童虐待防止法(2000年施行・改正強化済み)もあれば、子どもの権利条約(日本は1994年批准)もあります。
8歳の子供を52日間も母親から引き離す行為は、心理的な虐待に該当する可能性が高いと言わざるを得ません。
実際に手を上げて泣かせるなんて、傷害罪(刑法204条)にあたってもおかしくないわけです。
なのに、そういった行為が「昔はそういう時代だった」「熱い監督だったんだよ」と美談のように語られ、誰一人として刑事罰を受けていない。
この法律と現実のあいだに横たわる深い溝が、多くの人の感情を逆撫でしているのだと感じます。
では、なぜ今になってこの問題がこれほどまでに人々の心を揺さぶっているのか。
いくつかの理由が重なっているように思います。
まず、園子温監督や榊英雄被告の事件をきっかけに、成人の俳優に対する性加害が刑事や民事で追及されたあと、「じゃあ子役への暴力はどうなんだ」という議論が自然と浮上してきたこと。
いわば、MeToo運動の延長線上にある「次の問題」として、子役の被害にスポットが当たったんですよね。
子供は大人よりもずっと声を上げにくいし、被害が表に出るまでに長い時間がかかりがちです。
だからこそ、大人の問題以上に深刻だと受け止められているのでしょう。
そして、この話題に反応している人の多くが、子育て中の親世代だということも見逃せません。
自分の子供が同じ目に遭ったらと考えただけで、胸がぎゅっと締めつけられる感覚。
親としての本能が、ダイレクトに刺激されるテーマなんです。
さらに、エンタメを楽しんできた消費者としての後ろめたさもあるのかもしれません。
過去に感動した映画のあの泣きのシーンが、実は本物の恐怖だったかもしれない。
自分が楽しんでいたものが、子供の犠牲の上に成り立っていたのだとしたら——。
そう考えると、なんともいえない居心地の悪さを感じてしまいますよね。
SNSの時代になって、こうした告発が一瞬で拡散されるようになったことも大きな要因でしょう。
昔なら業界の中だけで「まあまあ」と収められていたような話が、今やXのタイムラインに流れてきて、ヤフコメには「逮捕されるべきだ」「絶対に許せない」という声があふれかえっている。
もう「業界の内輪話」では済まされない時代になったということなのでしょう。
この怒りは、単なる「昔の話への憤り」ではないと思うんです。
今もどこかの撮影現場で同じことが起きているんじゃないか、という拭えない不安。
そして、大人が子供を守らなかったことへの、深い深い失望。
芸術の名の下に子供の尊厳を踏みにじる行為を、もうこれ以上見て見ぬふりはできない。
そんな、人として当たり前の叫びが、今まさに社会全体に広がっている——そう感じてなりません。
映画界の闇で子役への暴力が疑われる具体例
では、具体的にどんなことが行われてきたのか。
松崎悠希さんのスレッドで挙げられた事例は、監督たちが過去のインタビューや取材の中で自ら語った内容がベースになっています。
つまり、でっち上げでも噂話でもなく、本人たちが公の場で認めている話なんですよね。
ここでは、その中でも特に衝撃的なエピソードを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。
①西村喜廣監督による「リアルな表情」の強要
ホラーやアクション作品(『ゾンビマン』『片腕マシンガール』など)で知られる西村喜廣監督は、インタビューの中でこんな趣旨の発言をしています。
「子役に実際に手を出すことは結構ありますね。若い子なんでリアルさを出さないと、あの表情は出なかったと思います。別にそこまで危険なことはやってないと思うので」と。
つまり、子供の恐怖や痛みの「本物の表情」を引き出すために、実際に身体的な接触をしていたことを本人が堂々と認めているわけです。
西村監督の作品に出てくる子供の怯えた表情が「リアルすぎる」と評される背景には、こうした手法があった可能性が高いと言えるでしょう。
個人的に一番ゾッとしたのは、「そこまで危険なことはやってない」という言葉の軽さでした。
大人が子供に手を上げておいて、「まあ大したことはしてないですよ」と言えてしまう感覚。
これがこの業界の「普通」だったのかと思うと、正直言葉を失いますよね。
②小林勇貴監督の「児童虐待撮りました」発言
インディーズ系の映画監督として知られる小林勇貴監督(『MATSUMOTOTRIBE』など)は、自身の作品についてこう語ったことがあります。
「恐ろしいものが撮れてしまいましたが…。児童虐待撮りました(笑)」と。
(笑)って、何なのでしょうね。
子供を意図的に精神的・身体的に追い込み、虐待まがいの状況を作り出して撮影したことを自分で認めているだけでなく、笑い話にしている。
ドキュメンタリー風のリアルさを追求するスタイルで知られる監督ですが、その「リアルさ」の裏側で子役がどれだけ傷ついたのかは推して知るべしでしょう。
虐待を「クリエイティブな達成」と見なすこの感覚こそが、業界全体に染みついた感覚の麻痺を象徴しているのかもしれません。
普通の社会なら大問題になるような発言が、映画界という閉じた世界では「武勇伝」として消費されてしまう。
そのこと自体が、もう異常だと言うほかありません。
③冨樫森監督による「52日間の親子引き離し」
冨樫森監督(『おしん』リメイク版2013年などで知られる)は、8歳の子役を52日間にわたって母親から引き離して撮影を行ったことをインタビューで明かしています。
しかもその理由として、過去の巨匠たちの名前を次々と挙げて正当化しているんです。
「相米慎二さんも田畑智子ちゃんを親と会わせないで撮影していたし、小栗康平さんも子役を親から離して住まわせていた。今村昌平さんも浦山桐郎さんもそうやっていたと思う」と。
52日間というのは、約1ヶ月半です。
8歳の子供が1ヶ月半もの間、お母さんに会えない——。
もしこれが映画の撮影ではなく、たとえば学校の合宿や習い事の指導者がやったことだとしたら、即座に児童相談所が動くレベルの話ではないでしょうか。
児童虐待防止法では、保護者から子供を不当に引き離す行為は心理的虐待にあたる可能性があるとされています。
なのに、「映画の撮影だから」「偉大な監督たちもやっていたから」で、誰も問題にしてこなかった。
「偉い人がやっていたから正しい」という理屈は、冷静に考えれば何の根拠にもならないはずです。
この異常さに気づいてしまった以上、もう見過ごすことはできないと感じます。
④巨匠たちが美談にしてきた過去の凄惨な演出
松崎さんのスレッドでは、日本映画界の「巨匠」と呼ばれる監督たちのエピソードが「伝統」として列挙されていました。
どれも、いわゆる「職人肌の熱い監督」として美談のように語り継がれてきたものばかりです。
相米慎二監督は、子役時代の田畑智子さんを親と会わせずに撮影していたとされています。
『お引越し』や『セーラー服と機関銃』などで少女の孤独や苦悩を描いた名シーンの裏側に、実際の孤立体験があったのかもしれない——そう考えると、作品の見え方がまるで変わってきます。
今村昌平監督については、子役や若手女優への過酷な指導の「伝統」を引き継いだ人物として名前が挙がっています。
カンヌでパルム・ドールを受賞した『うなぎ』で世界的な評価を得ましたが、現場での精神的な圧力についても複数の証言が残されているんです。
河瀬直美監督は、16歳の子役に対して「カメラから逃げるな!」「なんでそんな簡単なんや!」と怒鳴りつけ、逃げ場のない状況で追い込んだとされています。
自然主義的な作風で高い評価を受けてきた監督ですが、その「自然な演技」の裏に恐怖があったとすれば、作品の価値そのものが揺らぎかねません。
こうしたエピソードに共通しているのは、すべてが「熱血監督のエピソード」として好意的に伝えられてきたということ。
名作の泣き崩れるシーンが、実は本物のトラウマから生まれていた可能性がある。
私たちは今、過去の名作を全く別の目で見つめ直す必要に迫られているのかもしれません。
子役への暴力処分が甘い理由
ここまで読んで、多くの方がこう思ったのではないでしょうか。
「なんでこんな明らかなことが、ずっと放置されてきたの?」と。
暴力や精神的な追い込みが公然と語られているのに、刑事罰も業界追放も起きていない。
その裏には、いくつもの構造的な壁が積み重なっていて、簡単には崩れない仕組みが出来上がっていたんです。
①芸術という免罪符による正当化
「作品のためだから」「リアリティを追求するためだから」。
この魔法の言葉が、長い間ずっと免罪符として機能してきました。
表現の自由という大きな盾の陰に隠れて、子供の権利や安全がいつも後回しにされてきたんですよね。
現代の法律では、たとえ撮影現場であっても、子供に身体的な危害を加えれば傷害罪に問える可能性があります。
児童虐待防止法にも抵触し得るでしょう。
ところが現実には、「演出の範囲内でした」と主張されれば、立件のハードルは一気に上がってしまう。
被害を受けた子役本人が声を上げにくいうえ、証拠が「現場の空気」みたいなあいまいなものしかないケースも多いからです。
結局のところ、「芸術」という言葉がまるで水戸黄門の印籠のように使われてきたということなのでしょう。
それを見せられると、周りの人間はみんな黙ってしまう。
でも、その印籠の中身が空っぽだったとしたら?
もうその効力を認め続ける必要はないはずです。
②監督と子役の絶対的な上下関係
映画の撮影現場というのは、監督が絶対的な権力を持つ世界です。
大人の俳優ですら監督に逆らうのは相当な勇気がいるのに、ましてや子供がそれをできるわけがありません。
年齢も経験も圧倒的に差がある中で、「嫌だ」と言えば役を失うかもしれないという恐怖。
これは、榊英雄被告の裁判で認定された「抗拒不能状態」——つまり立場上抵抗できない状態と本質的に同じ構図なんですよね。
子役の場合はそれがさらに極端で、自分の置かれた状況が異常だということすら理解できない年齢の子もいるわけです。
スタッフや共演者にしても、「監督の言うことは絶対」という空気の中では、なかなか「それはやりすぎでは」とは言い出せないもの。
結果として、現場にいる全員が「見て見ぬふり」の共犯者になってしまう。
そういう構造が、何十年も当たり前のように続いてきたのだと考えると、本当にやりきれない思いです。
③親や事務所が逆らえない業界構造
では、子供を守るべき立場にいる親は何をしていたのか。
これも単純に「親が悪い」と片づけられる話ではないのが、この問題の根深いところです。
「この子の将来のために」「せっかくいただいたチャンスだから」と、親自身も我が子のキャリアを考えて黙認してしまうケースがあったようです。
経済的に撮影のギャラに頼っている家庭であれば、なおさら強くは言えなかったのかもしれません。
子役が所属する事務所にしても、監督やプロデューサーとの関係が悪くなれば、今後の仕事に響く。
苦情を言いたくても言えないという明確な力関係が存在しているわけです。
日本の映画制作は「製作委員会方式」が一般的ですが、現場レベルでは結局、監督に権力が集中しがち。
チェック機能が働かないまま、子供が大人たちの思惑の間で板挟みになってしまう。
子供を守るはずのセーフティネットが、どこにも張られていなかったというのが実態なのでしょう。
④映画賞賛美による過去の美談化
映画界には、「名作を撮った監督は偉い」という、ある種の神話のようなものがあります。
カンヌで賞を取った、ベルリンで絶賛されたとなれば、その監督の撮影手法まで含めて「天才の証」として持ち上げられてしまう構造。
今村昌平監督がパルム・ドールを受賞した『うなぎ』のように、世界的な評価を得た作品の監督に対しては、過酷な演出も「だからこそ傑作が生まれた」というストーリーに回収されてしまいます。
批評家やメディアがこうした「伝説」を繰り返し語ることで、暴力的な手法が美化され、正当化される循環ができあがっていたんですよね。
「あの監督は厳しいけど、それが名作を生む秘訣なんだ」と。
でもそれ、言い方を変えれば「子供を傷つけたおかげで賞が取れた」ということではないでしょうか。
そう考えると、とてもじゃないけど美談とは呼べないはずです。
⑤メディアが報じない広告・忖度の壁
そしてもうひとつ、見逃せないのがメディアの沈黙です。
映画雑誌やエンタメメディアは、映画会社や配給会社からの広告収入で成り立っている部分が大きい。
つまり、業界を批判する記事を書くことは、自分たちのスポンサーを敵に回すことを意味するわけです。
週刊誌がようやく取り上げたとしても、「まあ昔の話ですからね」という扱いで終わってしまうことがほとんどでした。
SNSが普及する以前は、告発しても情報が広がらず、被害者が孤立するばかり。
声を上げた人が損をするという状況が、長い間続いてきたということなのでしょう。
こうした要因がすべて絡み合って、法的にも社会的にも問題が放置され続けてきたわけです。
榊英雄被告への実刑判決(控訴中)のような変化の兆しは出てきていますが、子役への暴力という分野では、まだまだ改革の手が届いていないのが現状と言わざるを得ません。
榊英雄と園子温を支えた共通の構造
ここからは、子役の問題と地続きにある、成人の俳優に対する性加害の話にも触れていきます。
表面的には別々の事件に見えるふたつのケースですが、根っこの部分には同じ病理が潜んでいるんですよね。
それが、「監督絶対主義」という名の権力構造です。
2026年3月6日、東京地裁で榊英雄被告に懲役8年(求刑10年)の実刑判決が下されました。
弁護側は即日控訴しましたが、宮田祥次裁判長は「監督と俳優という立場の差を悪用した、悪質かつ卑劣な犯行」と断罪しています。
被害女性が「役がもらえなくなる不安」から抵抗できず、抗拒不能状態だったことも認定されました。
被害者の睡蓮みどりさんは判決後、「やっと認められた」と涙ながらにコメント。
世間からは「8年でも軽い」「他の被害者も立件してほしい」という声が多く上がっています。
一方の園子温監督については、2025年5月の東京地裁判決を経て、2026年2月に控訴を取り下げたことで一審判決が確定。
この判決では、松崎悠希さんに対する名誉毀損訴訟の中で、園氏による一部の性加害行為が「真実である」と裁判所に認定されたんです。
具体的には、飲み会で知り合った女性に性的に迫ったことや、性的な関係を持った人物を自身の映画に出演させたことが、事実として認められています。
なお、園氏の刑事告訴(侮辱罪)は2025年12月に不起訴処分となりました。
園氏は2025年5月の記者会見で「裁判で潔白が証明された」と主張し、判決文の性加害認定部分を「あとがき感想文みたいなもの」と表現して物議を醸しました。
「全部恋愛だから問題ない」という園氏の主張に、「被害者への二次加害だ」と批判が殺到したのは記憶に新しいところです。
この二つの事件に共通しているのは、新人や駆け出しの俳優を孤立させる手口でしょう。
「ワークショップ」「個人指導」「飲み会」といった名目で、被害者を事務所や仲間から切り離していく。
園子温監督のケースでは、有料のワークショップ参加者を囲い込み、そこから性的なターゲットを選んでいたことも指摘されています。
榊英雄被告も同様に、演技指導の場を利用して被害女性を囲い込み、抵抗できない状況に追い込んでいたと認定されました。
そして、加害者側の主張も驚くほど似通っていたのが印象的です。
園子温監督は「全部恋愛」、榊英雄被告は「合意があった」。
どちらも、明らかに対等ではない関係の中で起きたことを、あたかも自由意志による対等な関係だったかのようにすり替えようとしている。
判決で「立場の差を悪用した」と明確に否定されたにもかかわらず、です。
松崎悠希さんが特に問題視しているのは、こうした加害者を守り続けてきた「業界の互助ネットワーク」の存在。
事件が発覚しても、一部の業界関係者が「昔の話だから」「熱い人だったんだよ」と擁護の声を上げる。
日本映画監督協会も声明こそ出したものの、具体的な追及や改革にはなかなか踏み込めていないのが現実でしょう。
仲間意識が、結果的に加害者を守る壁として機能してしまっているんです。
子役への暴力も、この延長線上にあると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。
「特別な指導」や「隔離撮影」という名目で子供を囲い込み、親や事務所も巻き込んで沈黙させる。
手法はほとんど同じで、ターゲットが成人から子供に変わっただけ。
この構造そのものを断ち切らない限り、同じことは何度でも繰り返されるのだろうと、強い危機感を覚えます。
映画界の闇…インティマシー制度の海外との差
日本の映画界が抱えるこの問題を、世界の基準と比較してみると、そのギャップに愕然とします。
海外では撮影現場の安全を守る仕組みがどんどん整備されているのに対し、日本はいまだに「監督の感性」が最優先される世界のまま。
ここでは、その差を具体的に見ていきましょう。
①海外では義務!IC不在の濡れ場は撮影不可
まず「インティマシー・コーディネーター(IC)」という言葉、聞いたことはあるでしょうか。
これは、性的なシーンや暴力的な描写がある撮影において、俳優の安全と同意を守るための専門スタッフのことです。
いわば、撮影現場の「安全管理人」とでも言えばわかりやすいかもしれません。
ハリウッドでは、俳優の労働組合であるSAG-AFTRAの規定により、2020年以降、ICの同席が義務化されています。
ICがいない状態で親密なシーンを撮影すると、それだけで契約違反になるんです。
具体的にどんなことをするかというと、事前のリハーサル、身体的な境界線の設定、同意の継続的な確認、セットの閉鎖、心理的な安全の確保といったプロセスが標準化されています。
子役が関わる撮影についても、チャイルド・パフォーマーICや「シャペロン」と呼ばれる保護者・福祉担当者の常駐が必須。
つまりハリウッドの基準で考えれば、「本気で殴ってリアルな表情を撮る」とか「恐怖で泣かせる」といった演出は、そもそも物理的に不可能なんですよね。
仕組みとして、それができないようになっている。
この違いは、本当に大きいと感じます。
②「監督の感性」が人権より優先される日本の歪み
一方、日本ではどうかというと、ICの導入は完全に任意です。
日本俳優連合や日本映画監督協会のガイドラインは存在するものの、強制力はゼロ。
親密なシーンや暴力シーンの取り決めは「口約束」や「監督の裁量」に委ねられ、俳優が拒否すれば「わがまま」と見なされる空気がいまだに残っているのが実情です。
子役に関しても、厚生労働省や文部科学省からの通知レベルのガイドラインはあるものの、罰則がありません。
現場では「昔からこうやってきたんだから」の一言で、簡単に無視されてしまう。
「そんな細かいルールで創作が縛られたら、いい作品は作れない」。
この言い分は、一見もっともらしく聞こえるかもしれません。
でも、よく考えてみてほしいんです。
ハリウッドはICを義務化した後も、素晴らしい作品を次々と生み出していますよね。
人権を守ることと良い作品を作ることは、本来、両立できるもの。
「人権を守ったら良い作品が作れない」という主張は、もう通用しない時代に入っているのではないでしょうか。
③榊英雄の実刑を防げなかった日本の「任意」導入
榊英雄被告の事件では、「演技指導」の名目で性的な暴行が繰り返されていたわけですが、もしICや第三者の監視がいれば防げた可能性はかなり高かったと考えられます。
任意のコンプライアンス研修が行われていたとしても、実際の撮影現場にICがいなければ意味がないんですよね。
密室で監督と俳優が二人きりになる状況を、仕組みとして排除できていなかった。
判決で「卑劣」と認定された行為は、海外の基準であれば撮影自体が成立しないレベルのものだったはずです。
園子温監督のワークショップにしても、第三者の監視が入らない閉じた空間だったからこそ、搾取が常態化したわけで。
「任意」という言葉の裏に、どれだけの被害が隠れてきたのか——考えるだけで胸が痛みます。
④子役への暴力も監視する海外の「シャペロン」制度
海外では、子役の保護がとりわけ厳格に規定されています。
ハリウッドのSAG-AFTRAやイギリスのBBFCの基準では、子役の撮影時間の制限、休憩の義務化、福祉担当者の常駐が当たり前の風景です。
暴力シーンや泣きのシーンを撮る際には、事前の同意書の取得と心理カウンセリングが必須。
実際に手を上げたり、親から引き離して隔離したりする行為は、即座にルール違反として撮影がストップされる仕組みになっています。
日本にも労働基準法による児童労働の規制はありますが、撮影中の精神的な暴力についてはグレーゾーンのまま。
冨樫森監督が行った52日間の親子引き離しなんて、海外の基準に照らせば児童福祉法違反として即座に当局が介入するケースでしょう。
この差は、もう「文化の違い」で済ませていいレベルではないと思うんです。
⑤予算不足を言い訳に人権を後回しにする製作委員会
日本の映画制作でICが普及しない理由として、よく聞かれるのが「予算がない」という言い訳です。
製作委員会方式ではどうしても予算が限られがちで、「ICを雇うお金なんてない」というのが決まり文句になっている。
でも、ハリウッドの大作映画ではIC費用が最初から予算に組み込まれているのが当たり前。
低予算のインディーズ作品でも、安全管理を怠ることは許されません。
予算の大小に関係なく、人の尊厳を守ることは「コスト」ではなく「前提」であるべきではないでしょうか。
予算がないから人権は後回し。
スケジュールがタイトだから安全確認は省略。
そんな理屈がまかり通る現場で、子供や若い俳優が犠牲になり続けてきたのが日本の現状です。
ハリウッドがMeToo以降、人権を最優先にシフトした一方で、日本は「昔の熱血演出」の神話からいまだに抜け出せていない。
この構造を変えることは、もう待ったなしの課題なのだと感じます。
役者への暴力を根絶するために
ここまでかなり重い話が続きましたが、最後は「じゃあどうすればいいのか」という話をしたいと思います。
榊英雄被告の実刑判決(控訴中)、園子温監督の性加害に関する一部真実認定の確定、そして松崎悠希さんの粘り強い告発。
これらは間違いなく、日本の映画界に変化を迫る大きな転換点になっているはずです。
まず最も急がれるのは、インティマシー・コーディネーターとシャペロン(子役の福祉担当者)の義務化でしょう。
ハリウッドのSAG-AFTRAと同等の強制力を持った制度を導入し、親密なシーンや暴力シーン、子役が出演するシーンには必ずICまたは福祉担当者が同席するルールを作る。
違反があれば撮影は即中止、罰則も設けるべきでしょう。
子役については、撮影前後の心理ケアも欠かせないのではないかと思います。
キャスティングの透明化も不可欠です。
ワークショップや飲み会を通じた「監督の個人的な選考」をなくし、キャスティングディレクターによる公正なオーディションを標準にしていく。
オーディションの様子は記録に残し、密室での不当な圧力が入り込む余地をなくすことが大切でしょう。
児童出演に関するガイドラインも、現行の「お願いレベル」から法的な強制力を持つものへと格上げすべき段階に来ています。
撮影中の隔離や身体接触、精神的な追い込みを明確に禁止し、違反があれば児童相談所への通報義務と刑事罰を導入する。
親や事務所に対しても、子供の権利についての教育を義務化することが望ましいのかもしれません。
そして、これは少し厳しい言い方になるかもしれませんが、「暴力なしでは撮れない」という監督は、もう現代の撮影現場からは退場してもらうしかないのだと思います。
製作委員会や配給会社が、コンプライアンスの遵守を資金提供の条件にする。
映画賞の審査でも、制作環境における人権への配慮を基準に加える。
そうやって、業界全体の価値観をアップデートしていくことが求められているのでしょう。
被害に遭った方を支え、声を上げた方を守る仕組みも欠かせません。
松崎悠希さんのように告発した人が「面倒な人」として扱われるのではなく、きちんと敬意を持って受け止められる文化を作っていきたいところです。
業界内に第三者の相談窓口を設け、二次的な被害を防ぐためのメディアガイドラインも整備していくべきでしょう。
そして最後に、これは私たち視聴者についての話です。
映画を見るときに、「この子役は安全な環境で撮影に臨めたのかな」とほんの少しだけ意識を向けてみる。
制作環境に問題があると知ったら、SNSでシェアして声を広げてみる。
それだけのことでも、積み重なれば製作側が無視できない力になっていくはずです。
榊英雄被告の実刑判決は、「刑事罰が下ることもある」という前例を作りました。
園子温監督の裁判と松崎さんの闘いは、「声を上げれば現実は動く」という証明にもなったのではないでしょうか。
子役への暴力は、子供の未来を奪いかねない重大な問題です。
これ以上、芸術の名の下に子供や若い俳優が傷つけられることがないように。
私たち一人ひとりが「見て見ぬふりはしない」と決めること。
その小さな意思の積み重ねこそが、業界を変えていく一番大きな力になる——そう信じています。
